時代を駆ける:古葉竹識/2 焼け跡、越境、甲子園

◇TAKESHI KOBA
 くしくも日本でプロ野球のリーグ戦が始まった1936(昭和11)年に生を受け、熊本で育ちました。小学3年で野球に出合ったけれど、とにかく物がない時代。身近にある木や布でバットやボールを手作りし、焼け野原の中を走り回りました。子供のころは、同じ熊本出身の巨人の川上哲治さんにものすごくあこがれましたね。将来はああいう大選手になりたい。そんな思いで毎日、野球漬けの生活を送っていました。小学校のチームでも俊足の内野手として活躍していましたよ。

 《小学生で、野球の名門校だった熊本県立済々黌(せいせいこう)高校への進学を決めた。当時は学区制だったため、遠方の中学校に越境入学。わざわざ電車で通学した》

 もちろん中学でも野球部です。当時の部の先生に「甲子園のグラウンドは素晴らしい。ガラスのように真っ平らで、グラブを出せば自然にゴロが入ってくるぞ」と言われ、一層やる気になりました。念願かなって済々黌高に進むと、1年の秋にレギュラーが取れました。そして、2年の春にセンバツに出場することができたんです。開会式のときには、球場が大きくて大きくて、感動するやら、緊張するやら。でも、試合になると不思議とおくすることなく、一生懸命プレーできました。準々決勝で浪華商(現大阪体育大学浪商高)に惜しくも敗れましたけれど、本当に楽しかった。また甲子園に行ってやろうと思っていたけど、結局その後は出場できずじまい。残念でしたね。

 《高校では友人にも恵まれた》

 進学校で、勉強が厳しくてね。入学したらいきなり「赤点とったら、退部やぞ」と脅されました。練習も厳しくて、15人ぐらいいた同期で最後まで残ったのは5人だけですよ。やめた連中も含めて、今でもみんな親友ですけどね。中にはハンドボールの日本代表になって、オリンピックに出たのもいますよ。当時はバンカラな気風で、履いているのはみんな高げた。酒を飲んだり、たばこを吸う連中もいたけど、私にだけはすすめなかった。「お前はプロに行くんや。悪さしたらいかん」ってね。

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 聞き手・岸本悠/「時代を駆ける」は火~土曜日掲載です。

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 ■人物略歴

 ◇こば・たけし
 東京国際大野球部監督。熊本市出身。プロ野球・広島監督として日本一3度。74歳(写真は済々黌高時代=古葉さん<上左端>提供)

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