東京で空襲があった

◆いきなり爆風、体が浮き上がった/78歳女性の記憶

 1945年8月。東京では空襲が続いていた。「東京大空襲・戦災誌」(東京空襲を記録する会編)によると、10日早朝には米軍機150機が板橋や王子地区を襲い、1万人近くが被災し、約200人が死亡。さらに13日、品川や蒲田方面を60機が襲い、30人が死亡している。

 当時、品川区の大井鹿島町(現・大井6丁目)に住んでいた日比野繁子さん(78)=大田区山王1丁目=は当時13歳。13日、庭の一角に作っていた菜園に爆弾が落ちた。

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 あの日はいつも通り、午前5時20分に起きた。すぐ警戒警報が鳴ったが、朝食もその後の部屋の掃除もいつも通り。そこへ、小型機のキーンという甲高い音と高射砲の音がした。空襲に慣れちゃっていたから、父はまだのんびり新聞を読んでいたわね。でも母はすぐに私と地下壕(ごう)へ向かったの。父が証券会社を経営していたから、家の敷地は広く、地下壕につながる地下室もあったのよ。

 地下道でいきなり爆風を受け、体が浮き上がった。もう少し広ければたたきつけられていたわね。その時、私が真っ先に心配したのは、炊いていた小豆のことだったのよ。

兜町は情報が早かったようで、12日には父の元に敗戦の情報が入っていたの。現実主義者の父は軍部が嫌いで、「戦争が終わるのはおめでたいから赤飯を炊こう」って。13日の朝から、貴重な小豆を炊いていたの。

 結局、家族は無事で、家屋もガラス戸や障子が吹き飛んだだけ。家の中に1センチほどの土が積もっていて、掃除は大変だったわ。そうそう小豆はね、ひしゃげたお鍋ごと七輪の中にあったわよ。たしか、汚れをとって、食べたはず。

 田舎がなかったから44年11月から箱根の旅館の一角を借りて、「半疎開」って言って、行ったり来たりしていた。当時箱根には、日本にいた外国人が集められていたんだけど、女の人たちが絹の服を着て、スカートをはいていてね。うらやましいなあ、と思っていた。

 だから戦争が終わってすぐ、父のスーツを仕立て直してツーピースをこしらえた。9月に箱根から完全に引き揚げるとき、それを着て品川駅に降り立ったら、通りがかりの男性に「何でそんな格好しているんだよ」って怒鳴られたわ。

 特別おしゃれなわけではない。でも、戦後はズボンをはかなかった。モンペなんかはかされたことへの抵抗、ね。ふつうの人たちがささやかな楽しみも制限される時代は、絶対におかしいでしょう。

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